東和交通はもうすぐ
80周年を迎えます。
東和交通株式会社は愛知県近辺の皆様に愛され、80周年も目前となりました。
まだタクシーが一般的でなかった時代から今の時代まで皆様の足として共に走り抜けてきました。
これからも皆様に寄り添い、『安心するいつものタクシー』であれるように、当たり前のことを当たり前に誠実に取り組んでまいります。これからもよろしくお願いいたします。
ここでは東和交通がどのようにして生まれ、タクシー業界が如何にして発展してきたのかをご紹介いたします。ご夫婦で懐かしみながら、ご家族で歴史に思いを馳せながらぜひご覧ください。
昭和20年3月27日。鍋屋交通合名会社、千種交通有限会社、昭和交通有限会社の三社が合同し、さらに新栄を買収し、資本金31万円で東和交通株式会社が誕生しました。
新年早々トヨタから「トヨペットクラウン」が発表され、タクシー業界は直ちに導入をはじめました。
当社は、東新町本社・営業所をはじめ、長塀町、今池、大須、鉄砲町、高辻、栄町ニュートーキョー、舎人町、東山公園、名駅構内、仲之町、舎人町南、医大構内、新舞子、春日井王子、春日井駅構内、新歌舞伎座、中京競馬場構内等に数多く営業所を置き、全盛時代を迎えつつありました。
白タク※が横行し、本業のタクシーを脅かしました。
当然これは違法行為ですので、それを逃れるためにあらかじめ客にハンカチ、新聞、雑誌などの品物を渡し、それを買ってくれたお礼に送り、車代はサービスという名目で営業していました。
※自家用車を使ったモグリのタクシー。2~3割安い料金で客を運んだ。
東大生の交通事故死を悼む芽東大総長が朝日新聞コラム欄に一文を載せたのがきっかけで"神風タクシー※追放キャンペーン"がはじまりました。
3月10日に運輸大臣が「神風タクシーについて善処方を要望」し、4月17日には内閣交通事故防止対策本部が「タクシー事故防止対策要綱」を決定して運動は本格化しました。
※昭和30年代の日本で交通法規を無視し無謀運転を行っていたタクシーのこと。
1959年10月、運輸省はタクシーの個人営業を許可しました。
ハイタクは公共的な性格から零細資本による営業を禁止していましたが、運転手の自営、神風タクシーの横行などから「永年に亘り、無事故・無違反の優良運転者に夢を与え、業界に新風を送る」との政治的決断により実現しました。
配車はすべて各車庫から電話注文により行われていましたが、より一層の利便性と機動性を目的として、車両に無線が取り付けられました。
東和交通は当初30台からスタートしました。
景気の下降とガソリン税の大幅な増税に伴うガソリン価格の著しい高騰により、タクシー会社の経営は次第に圧迫されはじめました。この状態を打開する一策としてガソリン価格よりはるかに安いLPGの使用が着眼され、脱着式のLPガスボンベを搭載したLPG車が走り出しました。
また、軽油を燃料としたディーゼル車も出現しましたが、振動やエンジン音が大きく、営業車としてはあまり歓迎されませんでした。
LPG車は当初、火災や爆発を起こすなど幾多の保安上の問題がありましたが、改善を重ね、脱着式から現在使用されている固定式のボンベに改良されてからは事故は起きなくなり、タクシー仕様車としてしっかり業界に定着しました。
1964年2月20日、東和・つばめ・中日の三社共同で大名古屋ビルヂングでの営業所が開設されました。
労働省は1967年2月9日、「自動車運転者の労働時間改善基準について」の通達を出しました。
これは自動車運転者の長時間労働をなくし、過労運転や重大事故を防止するため、実態に即して、労働時間、休日、休憩などの基準を定め、累進歩合の禁止や仮眠施設と健康診断の義務づけ等を定めたものです。この指導基準は、ILO第67号条約及び第51号覚書を基本とし、実態調査結果を加味して策定されたものでした。
このころ激化していた中東戦争は全世界に石油パニックを引き起こし、特にLPGの品不足はその極みに達し、タクシーは1車1日35ℓの補給量に厳しく制限されてしまいました。名古屋では会社別に裁量が決められていました。
当社においては、待ち仕事の多い関係もあって走行距離が他社に比べて少なく、会社割り当て総量内で自由に補填していたので、大きな影響は受けませんでした。
1992年5月、本社建て替えが施工されました。清潔感のある白い壁に赤い東和のロゴが映えるデザインになっています。
東和交通はもうすぐ80周年を迎えます。
これまでの数十年間、多くの人々に支えられ、私たちのサービスを利用していただきましたことを心より感謝しております。
私たちはより一層サービスの質を高め、地域社会に貢献していく所存です。80周年を迎える際には、改めて皆様に心よりお礼申し上げるとともに、これからも愛されるタクシー会社であり続けることをお約束いたします。